固有名詞のど忘れ

Adorazione dei Magi - http://it.wikipedia.org/wiki/Adorazione_dei_Magi_%28Leonardo%29今朝のトップニュース、イチロー選手の電撃移籍には驚かされました。「若手にチャンスを与えたい」というコメントを聞き、同世代のひとりとして感慨深いものを感じた次第です。

偉大なアスリートを引き合いに出しておいて、このような話をするのも何ですが、最近になって固有名詞のど忘れがしょっちゅうあり、自分でも嫌になっています。

この前もキリストを祝福した東方の三賢人について「バルタザールでしょ、ええと、それから、(しばし沈黙)」こんな感じです。その次を思い出したのは10分ぐらいたってから「あ! カスパールだ!!」。それからは、もう全くといっていいほど何も浮かんで来ません。このままではすっきりしないので何とか思い出そうとするのですが、さっぱりでした。

そして、最後の「メルキオール」を思い出したのが、1時間くらいたってからというトホホなありさまでした。記憶としては脳みそのどこかに存在しているのでしょうが、どうやらそれを引き出す能力(機能?)がくたびれているようです。

これは老化なのか、単なる疲労なのか… 気になるところです。

IP multi-media subsystem(IPマルチメディア・サブシステム)

無線通信計測関係の翻訳で、IP multi-media subsystem(IPマルチメディア・サブシステム、IMSと略されることも多い)という言葉で出てくる。

IMSは、通信ネットワークのオールIP化の流れの中で、IP(インターネット・プロトコル)をベースにしたパケット通信ネットワークで携帯電話やスマートフォンなどの音声/動画通信を提供するための技術である。IMSには、多くのインターネット技術を取り入れられていて、通信の開始や切断を行うセッションの制御には、IETF(Internet Engineering Task Force 、インターネットで利用される技術を標準化する組織)によって標準化されたSIP(Session Initiation Protocol、セッション開始プロトコル)が使用されている。

IMSの詳細については、以下のサイトを参照

IMSとは? なぜIMSが必要なのか?

電子情報通信学会の知識ベース「知識の森」のS1群6編「次世代ネットワーク」4章「SIP,IMSと品質基準」

夏がやってきた。熱い夏が。

節電の夏がやってきた。昨年も節電に頑張った。今年も頑張ろう~。そう奮い立たせてくれる、今は亡き尊敬する上司がいた。かつて在勤していた、在ガーナ日本国大使館の参事官がその人だ。

こんなことがあった。ある日、

「ばかやろう!」という怒る声が、玄関から通じる大使館のロビーに響き渡った。参事官の怒鳴る声だ。あまりの大声に、何事かと部屋を飛び出すと、凍りつく現地職員たちを参事官が鬼の形相でにらみつけていた。

「さっさと電気を消さんか!バカ者どもが。何度同じことを言わせるんだっ。自分たちの国が苦しんでいるんだぞ!国民が耐えているんだぞ!電気もない、水もない。皆が不自由を耐えているというのに、たまに電気がきたからといって、電灯をつけるとは。バカ者~!」

現地職員の誰かが、うっかり電灯のスイッチを入れてしまっただけであったが、叱責の言葉は30分以上も続いた。

さらに、われわれ大使館員への叱責も続いた。「君たちは何のためにこの国に赴任してきたんだ!よく考えろ!援助を行っている日本が、その姿勢を示さなくてどうする!バカたれ!この国の状況がわからんのか!電気のある冷房のきいた部屋で、本省に対して、日本へ援助案件の報告書が書けるのか?」その剣幕たるや、尋常ではなかった。

1980年代のガーナは政情不安定な状況にあった。電気や水道といった公共インフラは半壊状態。そんななか、たまに電気が供給され、たとえ薄暗い室内であっても明かりをつけようものなら、参事官の怒りようは大変なものとなった。ましてや、冷房を入れるなんてことは、どんなに汗をかいていようが、暑かろうが考えもつかないことであった。

「ガーナのどこの役所でも、電気がある時は冷房ぐらいかけているよ。それなのに、援助国の日本の大使館では、電灯をつけることさえできないなんて」といった不満のつぶやきは現地職員の中から時折聞こえてきたが、誰もが参事官の姿勢に理解を示していた。

『国を想い、人に熱く、真理に生きる』という己の信念を貫く参事官の姿勢は徹底していた。こうした厳しい姿勢は、ガーナ国の政府機関に対しても変わらず、政府機関を訪ね部屋の冷房が入っていたりすると、「干ばつでダムの水位も下がり、電力不足も続いるというのに…。わたしは暑くないけどねっ」と遠回しな表現ながら、臆することなく非難の言葉をなげつけた。

当初は困惑していた政府機関の人たちも、真剣にガーナ国を想う参事官に敬意を払うようになり、日本からの援助プロジェクトも着実に実を結んで、日本国への評価はさらに高まっていった。

その参事官は、今はもういない。ご遺族の心遣いで、火葬後の骨を拾わせていただいた。彼の名は、歴史の教科書には出てこない。が、偉大な外交官だった。外交を、生き方を教えてくれた彼との数多くの思い出は、わたしの心の中に、うずたかく残っている。幕末の志士たちよりも、日本を想い、世界を見つめ続けた熱い人物だった。そんな彼を感じる、夏がやってきた。