尊敬する先生

先日、わたしの最も尊敬する先生から手紙が届いた。奥様の死を知らせる訃報であった。手書きの訃報にはこうあった。

「…自分のやりたいことばかりして、妻のしたいこと、また健康を思いやることに欠けていた私としては深い後悔に今はうちひしがれています。これからは妻の生き方、妻が私にしてくれたこと、妻が今後やろうとしていた社会貢献をよく考え、妻を生かし続けるよう努力したいと考えています。…」

その先生は、東京大学の名誉教授である。が、学者である前に活動家であり実践者である。”学者であると同時に”と言わないのは、実践者としての偉大さが際立っているからである。まさに、並はずれた頭脳を人生をかけて実践に生かされている。未曾有の苦難にあえぐ人々を救うための活動を実践されておられる。故にわたしは、その先生を最も尊敬している。

その先生を支えてこられ、最も強力な理解者であった奥様が亡くなられた。癌との闘いだったようだ。病床にありながらも、苦しみながらも明るく振舞っていたと聞いた。その奥様の病床でのお気持ちを察するには、余り有るものがある。深い愛が垣間見えるだけに、先生の実践者としての必死なまでの日ごろの言動に心打たれる一人として、奥様の無念さも伝わってくるようで辛く悲しみに耐えない。

いつの時代にも美辞麗句を並べるだけの人と”生きる”リスクを負う実践者はいる。実践者には時として、喩えて言えば「石」が投げ付けられたりもする。実践者には矢面に立つ覚悟と揺るぎない強い信念、そしてそれを可能ならしめる環境が必要なのだが、その環境を作り上げ支えておられた奥様には、先生と同等に尊敬の念を強く抱く。

時間は、実践者とそうでない人とをふるいにかける。時間が、歴史が、いずれ、正当にその先生の評価をしてくれるだろう。先生とともに活動に参加させていただいているわたしの切なる願いは、先生の生あるうちに、実践の”実り”を知らせる”吉報”が届くことである。たとえ、時間が実践者を評価する時が来るとしても。

週末、葬儀式に参列した。遺影写真の奥様は、明るく微笑んでいた。帰りの電車の中で、参列者への返礼文を開いてみた。そこには、奥様への想いがつづられていた。「笑顔の愛らしく美しい人」と題されて。

心から合掌||

「節節高升」「歩歩高升」

12月31日も1月1日も、仕事をする上での違いはない。が、そこには時間軸上の節目がある。新年を迎えた新たな決意や願いもあるだろう。

単なる区切りとしての節目は、英語でturning pointと言う。業務上の節目はmilestoneとも表現するが、単に「節(ふし)」と出てきた場合の訳は文脈によって当然大きくことなる。

その「節」だが、日本では古来より竹の節の効能が活かされてきた。団扇や茶せんは竹の節を活かした芸術品であるし、尺八の音色は節によって甲高く響く。日本の弓道で使われる竹弓は節があることでしなりに堪え座屈しにくい。

「竹は節ありて風雪に強し」と言われるが、竹の強さの秘密は節にある。節のおかげで竹はしなり強靭になる。節にはまた、病原菌の侵入を阻止する力もある。竹の節の数は成長した竹もタケノコの時も同じだが、節と節の間隔が伸びることで真っ直ぐ上に強く成長していく。節には成長要因があるからだ。

重要な成長要因のある「節」の始点が12月31日と1月1日の間には存在すると考えると、身の引き締まる思いがする。

この「身の引き締まる思い」を英語で表現する場合、inspire(インスパイア)、bracing(活力とエネルギーを与える)、motivate(動機を与える)といった単語を使ったりするが、節目はまさにインスパイア点と言える。初詣は、「節目」にインスパイアを求める行為でもある。

ローカリゼーション業界においては、歴史的にも大小さまざまな節目が数多く存在してきた。今、目の前に寄せてくるのは、業界の大きな「節目」を形成するであろう「アジャイル・ローカリゼーション」という大きなウェーブである。

時代は、これまでにないリアルタイム性を求め始めている。2013年は、日本を含め世界のL10N業界においても新たなturning pointとなるだろう。次々に出現してくるエキサイティングな課題。求められる即応性、柔軟性、専門性。これらにお応えし、さら進展していくには、「節」を一つひとつ増やし組織力を強靭にしていくことである。デプロは、困難な課題への取り組みを自身の成長要因と捉えている。まさに、それこそが一つひとつの「節」となり、発展への確実で力強い一歩となる。

「節節高升」「歩歩高升」