コロナ禍の今思い出すこと – お前一人の命じゃないぞ!

西アフリカで2年半ほど滞在していた20代のころ、マラリヤを患ったことが2度あった。その後10年ほどは毎年、マラリアに罹った時期になると、身体がその時の悪寒や脱力感を想起するのか原因不明の発熱に悩まされ続けた。

最初のマラリヤは突然やってきた。ある日、朝起きると身体中が熱っぽかった。体温を測ると41度。
「これぐらいは…」と勤務先の大使館へと向かった。その日の朝は、パウチ(外交行嚢=外交文書)を空港で引き取らなければならなかったため、休むわけにもいかなかった。

ふらつきながらも早朝のルーティン業務をこなし、現地スタッフのピーターと2人で空港へと向かった。車中、ピーターが、わたしの顔を見て声をつまらせた。
「Mr.スナガワ、熱があるのでは?マラリヤなら死ぬことも…」
「アフリカは暑いからネ。ありがとう」
と気丈なふりをしたものの、意識はうつろだった。

無事に行嚢を受け取り帰館すると、ピーターの姿が見えなくなった。
わたしは届いた文書を急いで整理し、上司の参事官室へ携行した。

「パウチが届きました」と開けっ放しの入り口からペコリと部屋に入ると、ピーターが参事官の傍に立っていた。
「バカヤロー!ピーターが教えてくれた」
「何度だ!朝測ってきたんだろ!」
「はっ、いえ…」と濁すわたしに
「体温は!」と畳みかけてきた。
「大したことは…40度…いや、もう下がっていると」
「バカヤロー!病院へ行け!運転はジローにさせろ。今すぐ行け」と怒鳴った。
「はっ、でも、報告書を書いてからでも…」
「お前はバカか!救いようがないな!これは命令だ!すぐ行け!」

上司の剣幕に圧倒され、街中の小さな病院へと向かった(当時、市内にはイギリス人医師が開業している小さな診療所が1軒あった)。車中、運転手のジローがぽつり。
「これで、Mr.スナガワもアフリカ人」

診察の結果、やはりマラリヤに罹っていた。治療薬はないため、予防薬をもらって大使館に戻った。
「薬をもらってきました」と参事官に報告すると
「バカヤロー、さっさと帰れ!」とまたしても。
「はっ、もう大丈夫です。ありがとうございます」と元気を装うわたしに、
「報告書を書いたらすぐに帰れ。ただし明日は休め。明朝の援助貨物の確認は俺一人で行く。これは命令だ。いいな!」と口調を強めた。
翌朝は、日本の援助物資が港へ荷下ろしされる予定であったため、その確認に参事官のお供をして立ち会うことになっていた。

翌朝…
いつものように早朝のルーティン業務をこなし、現地スタッフとロビーで打ち合わせをしながら参事官の出勤を待っていると、玄関前の車寄せに到着した車中から参事官が出てきた。わたしを見つけるなり、
「バカヤロー!休めと言っただろう!今日は何度だ!」
「40度はありません…」
「バカヤロー!大丈夫か…。無理するな!お前一人の命じゃないぞ!…大切にしろ!」と眼差しは優しげだった。
「少し待ってろ。準備は出来ているのか」
そう言うと参事官は部屋に一旦入り、ほどなくして出てきた。
手に持っていたカバンと水筒をわたしに手渡し、
「じゃ、行くか。家内が水を用意してくれた。それでも飲んで…」と車寄せまで先に歩き出した(当時、同国の公共インフラは壊滅し電気は供給されず、飲み水も満足に手に入らない状況にあった)。
「ありがとうございます」と後を追った。カバン持ちとして。

━━━

あれから、四半世紀が経つ。わたしが彼に仕えたのは、西アフリカでの2年ほどであったが、事あるごとに「バカヤロー」とわたしを怒鳴りつけながらもわたしを見守ってくれたその上司は、もうこの世にはいない。その後、わたしはアフリカから中東へと転勤となり、彼は功績が認められさらなる階段を上っていくこととなった。彼の働きにより、日本は同国への最大の援助国となったのである。

彼は晩年、外務省を辞めたわたしの生き方をいつも気にしていたと彼の家族から話を聞いた。彼の火葬の日、遺骨を拾わせていただいた帰りの車中から見えた風に舞う満開の桜の花びらに涙が止まらなかった。その彼は、わたしに誠の外交官のあるべき姿勢、人の生き方を教えてくれた最も尊敬できる偉大な師であり、戦後を生きた日本の誇りある人間外交官であった。わたしのその後の生き方の選択を真の意味で見抜いていたのは、外務省の中で彼ただ一人だったかもしれない。

「バカヤロー、お前一人の命じゃないぞ!」

幸せの黄色いハンカチ

高倉健が逝った。彼が主演した「幸せの黄色いハンカチ」を何度観ただろうか。その回数は、映画館の映写技師にも負けないだろう。

アフリカの大使館に在勤していたころ、広報活動の一環で地方の村々によく出かけた。日本文化の紹介の1つとして日本映画を上映するのだが、車に映写機やガソリン発電機などの必要な機材を積み込んで、ドライバーと2人で村々をまわるのである。地方をやみくもに巡回するわけではない。青年海外協力隊員を介したり、村の村長(酋長)や向学心の強い若者たちが大使館にやってきて上映を依頼してくることも多々あった。

地方に出かけるといっても、だとり着くまでが一苦労であった。地図などもなく道なき道を車で向かうのだが、数センチでも車幅を見誤れば崖下へまっしぐらとなる山道。タイヤがすぐに埋まってしまう泥道。明るいうちにたどり着ければラッキーだが、陽が沈むと車のライトだけが頼りとなる。車幅や前方を確かめながら、タイヤを慎重に1回転ずつさせながら進むのである。わたしは、ドライバーに命を預けるのだが、ドライバーは天に命を預けているかのように、亡き母親が子どもの頃に彼に歌ってくれたという子守唄をいつも口ずさんでいた。その子守唄のおかげで、二人っきりの真っ暗闇の車内はいつも穏やかだった。

ある村にいつものように2人で出かけたときだった。何とか日暮れ前に到着し、村人総出の歌や踊りで出迎えを受け、村に伝わる発酵酒を村長と飲み交わした後、広場を利用した天然の上映場でいよいよショータイムとなった。電気が灯ることもなく、村全体が真っ暗闇である。車に積んできた発電機に16ミリフィルムプロジェクターをつなぎ、上映会の始まり始まり~となった。

広場には赤ちゃんを抱っこした母親からお年寄りまで、村人全員が集まった。親近感を感じてくれそうな話題を交えながら日本の農業や日常生活を撮影した広報フィルムを上映して後、日本映画を上映する運びとなった。村人たちの好奇心溢れる目線を感じながら、フィルム走行のスイッチをひねった。車に積んできたスクリーンに「幸せの黄色いハンカチ(Yellow Handkerchief)」と映し出された。

「イエローハンカチーフ」と誰とはなしに、英語を解する数人が大声で字幕を読み上げた。英語をさらに現地語にして、語り始める村人もいた。識字率の低い村落ならではの自然な光景だ。穏やかな時の流れとともに映画が始まった。上映開始後まもなく、字幕を読み上げる声も聞こえなくなった。村人は、映像だけでストーリー展開を理解し始めていたからに違いなかった。派手なアクション映画ではない、淡々と流れる物語。説明を加えずに理解してもらえるのか、心配していた自分が自分で恥ずかしくなった。こっけいな仕草では皆が笑い、悲しい場面では広場の闇が怖くなるほどに静まり返った。

いよいよクライマックスが近づき、どうなることかと誰もが緊張し始めた。殺人を犯した夫が刑期を終え出所してくるのを、はたして妻は待っているのだろうか。待っていれば、黄色いハンカチが玄関か軒下にでも吊り下げられているはずであった。誰もが、息を止めて、その運命の瞬間を待った。

出所した夫は家路の途中で出会った2人の若者に励まされ、家が見える場所までやってきた。はたして、黄色いハンカチは?

2人の若者に促されて見上げた目線の先には?運動会の青空に広がる万国旗のように、これでもかと言わんばかりの数の黄色いハンカチが鯉のぼりの旗竿から延びるロープにくくりつけられ、風にはためいていた。

その瞬間、大歓声がわき上がった。「ウォ~!」。暗闇が一瞬にして、花火でも打ち上がったかのような歓喜の声に包まれた。拍手はいつしか踊りを誘う激しくも軽快なリズムの手拍子へと変わり、若い村人たちは大地を跳ねて踊りだした。1枚ではない無数のハンカチ。説明や終演の言葉など無用であった。

上映を終え機材を片づけ始めると「ありがとう、日本の友よ…日本人もアフリカ人も皆同じ…」と、村長が満面の笑みで語りかけてきた。そのそばから、「イエローハンカチーフは、この村にも皆の心にも幸せを運んできてくれました。本当にありがとう」と子供を連れた母親が目に涙をいっぱいためながら声をかけてきた。

「黄色いハンカチはきっと誰もが持っていると…持っていると誰もが願っていると…」
わたしも、そう答えるのがやっとだった。

翌日、帰路の車内でドライバーがポツリと口にした。「自分の母さんも、きっと喜んでいるよ。自分もこの仕事が一番好きさ」

日本映画をアフリカの奥地で上映しているなんて、日本人は誰も知らないに違いない。かつて、ある新聞記者に、この経験を話したことがあった。「作り話ですよね」と一笑された。黄色いハンカチは、今の日本人にこそ必要なのかもと思った。

「翻訳は陸上競技」

最近ようやく、英語の文意をくみ取って日本語で文章を作成できるようになってきた。正確に言えば、日本語に訳す際の「迷い」が減ってきた。

英語の文意を理解する能力と、その意味を日本語で書き表す能力とは異なる。英語を学んでいれば、そのうちに英語は理解できるようになるだろう。しかし、英語が理解できるからといって日本語文章も作成できるとは限らない。つまり、英語も日本語も理解できるからといって、日本語文章を作成できるかとなると、そうは問屋が卸さない。

「英語の意味は、わかるんだけど…」
「英語は、こういった意味なんだけど…」

翻訳の現場で時折耳にする会話だが、「わかるんだけど…」や「こういった意味なんだけど…」で留まったのでは、プロとしては失格だろう。

とは言いつつ、かく言うわたしも「自分も失格だな~」と痛感することが未だに多い。特に、マーケティング分野の翻訳ではそうだ。どういう日本語にすれば、英語を書いた人の意図が正確に伝わるのか。1単語を訳すだけでも、数日間悩み続けたりすることもある。言いかえれば、自信のないローカリゼーションサービスをお客様に提供するわけにはいかないからだ。それは、プロとしてのプライドであり、自信が持てるまで自らを追い込んでプロジェクトに取り組まなければ、成果を達成できたと自分自身が感じることもなく納得できないからだ。

校正業務では、1単語の訳に苦しみながらも、同時進行的に1時間で数千ワードは読み込み完成させないとビジネスにはならい。1日数万ワードの翻訳校正に音を上げてはいられないのが現実である。そのため夕方頃になると、「脳が疲弊」した状態に陥いる。モニター画面を見続けた影響で、まぶたは熱を持ち頭はくらくら。100メートルを全力疾走したかのように(呼吸するのを忘れていたのか)、気付けば呼吸困難で深呼吸を繰り返している。

「通訳とは格闘技」と通訳者の長井鞠子さんがテレビで語っていたが、一方「翻訳は」何に例えられるのだろうか。思うに「翻訳は陸上競技」なのだろう。100メートル走もあればフルマラソンもある。砲丸投げもすれば棒高跳びにも挑む。選手になるには、日々の厳しいトレーニングにも耐え、全天候型で全種目に出場可能な強靭な身体をつくらなければならない。

しかし、勝負の世界では打ちのめされることもある。勝利を逃し敗退したとしても、さらなる記録(成果)を目指し自分自身に挑み続けるのである。まさに「翻訳は陸上競技」だ。

「おとう」

父親の呼び方で一番多いのは「お父さん」だそうだ。2位はわからないが「パパ」なのだろうか。関西あたりだと「おとん」と呼ぶのが多いのかもかもしれない。日本昔話では「おっとう」とか、テレビドラマなどでは「お父ちゃん」という呼び方もよく聞く。愛情表現である呼び方が、家族によって、あるいは地域によってまちまちなのは当然と言える。

米国だと「Daddy」とか「Dad」が一般的だが、これらの愛情表現の翻訳は文脈がわからないと結構悩ましい。年齢とともに「Daddy」から「Dad」へと呼び方を変えたりするケースが多い。日本でも、男の子が「父ちゃん」と呼んでいたのを、いつの頃からか「おやじ」と呼ぶようになったりするのと似ている。ところが女性の場合は、ちょっと異なる。「Daddy」はいつまでも「Daddy」と呼ばれたりする。日本でも、その傾向があるようだ。「パパ」はいつまでも「パパ」であり、「お父さん」は「お父さん」なのだ。

因みに、わたしの場合は頻繁に呼び方を変えている。

生まれてから幼稚園生の頃まで:おとう
小学校の低学年の頃まで:おとう、父ちゃん
小学校の高学年の頃から中学生まで:お父さん(ふざけて、父上)
高校生から大学生まで:父ちゃん、父さん、お父さん
社会人になってから:父ちゃん、父さん、おやじ
現在:おやじ
将来:おとう

新年の朝に、突然になぜか「おとう」の音が脳裏に響いた。「おとう」に、一家の「大黒柱」としてのたくましさを表しているような、荒々しさや強さをイメージさせているような、偉大さを表現しているような音の響きを生まれて初めて感じた。「おとう」は、「さん」や「ちゃん」付けでは呼べない大きな畏敬の対象なのである。

父のことを「おとう」と呼ぶように、子どもたちに教えたのは母であったに違いない。いや、単に「おとう」が地元では一般的な呼び方であったのだろう。何れにしても今度、父を直接呼ぶときには、尊敬と愛を込めて「おとう」と呼ぶことにしよう。

あらためて、誰かに原点回帰を説かれているような、そんな感覚を覚えた新年の朝であった。奇しくも今年は、父の生年である。

夏休み

暑中お見舞い申し上げます。

近くの池でパチリ。
涼しげな鴨の親子。
duck360
見ているだけでゆったりとした気持ちになれる。人は、ゆとりがないと大きくなれないのかも。

ほんの散歩の夏休み(笑)。

辛辣にエキサイティング

マーケティング翻訳(トランスクリエーション)のプロジェクトが増えてきた。ビジネス成功のカギはブランディングにあるからだ。そのことに気づき、注力し始めた企業が増えてきている

企業が「”いいもの”、”いいサービス”、なのに、なぜ売れない」と感じるようであれば、ブランディングに失敗している可能性がある。

ブランディングは、価値を正確に伝えるところから始まる。単にそれらしい言葉を並べても、成功はおぼつかない。一口に「価値を正確に伝える」と言っても、そう簡単ではない。特にそれが、「ある言語」で形成された価値表現を他の言語形態で正確に表現するとなると、難しさは倍加する。

マーケティングの翻訳では、ブランディングを考慮した翻訳に徹する必要がある。翻訳はまさに、「一語懸命」の作業だ。たとえ一語の翻訳であっても、語法、用語の使い方、市場性などを徹底して調べ上げ、トランスクリエーションを実施する。当然、それだけでは不十分なのがマーケティングの世界だ。

そこで問われるのが、イメージングに即した表現力であり、時代への感性だろう。ところが、この表現力とか感性と言ったものに、「絶対」がないのが難しくもあり、面白さでもある。

ただし、「難しい」という言い訳は、プロの世界では通用しない。正確性を欠くようでは、ブランディングへの一歩も踏み出せないことになる。まずは、正確に伝えること。それを確実に実現する能力こそ、ローカライザーに求められる資質と言える。

マーケティングにおけるトランスクリエーションとは、知識欲を強烈に刺激されつつ、市場の正直な評価を正面で受け取れる「エキサイティング・ワーク」である。

一芸

社員の「一芸採用」枠なるものを設けた。

「一芸に秀でる者は多芸に通ず」という言葉もある。「多芸は無芸」とも言われる。ここで、多芸を揶揄する表現をざっと挙げてみる。

「器用貧乏」「多弁能なし」「何でも来いに名人なし」「百芸は一芸の精(くわ)しきに如(し)かず」「螻蛄才(けらざい)」

思いつくだけでも意外とある。「石臼芸(いしうすげい)より茶臼芸(ちゃうすげい)」なんていうのもある。中途半端な多芸は、道を究めんとする意識社会においては特にそうなのか、さんざんな言われようである。

こう見ると世の中、歴史的にも一芸を究めることを評価する度合いが高いようだ。洋の東西を問わないのか、”Jack of all trades is master of none.”と揶揄したりする。

が、しかしである。

かの宮本武蔵の『五輪書』には、兵法を学ぶ心得として「諸芸にさは(わ)る所(広く諸芸の道に触る事)」と説かれている。一方で彼は「役にたゝぬ事をせざる事」とも記している。矛盾しているようだが、実は矛盾してはいない。

彼は、剣術を究めただけではない。晩年は、多くの趣味に遊んだ。書画、工芸をはじめ、茶道や能も嗜み、和歌を詠み座禅も組んだ。一芸を究めんとすれば、諸芸に触れざるを得ず、一芸の限界を見出すことで境地を悟ったのだろう。一芸を究めたからこそ、多芸の道が開けたと言える。

つまるところ、多芸である「器用貧乏人」が「器用で何が悪い」と開き直るのにも一理ある。さんざんに言われる筋合いはないのだ。「諸芸花多くして実すくなし」と言われようが、花の多い木の下で人は花見をするのである。

そこで、冷静に考えてみる。一芸が先か多芸が先か。

まず、多芸が先だと、芸の道が中途半端になりがちである。すべての芸で道を究めることは、常人には不可能だからだ。宮本武蔵とて、例外ではない。ならば、一芸を究める努力を先にした方がいいことになる。然るに、一芸から多芸に通じる道は開かれるのである。

一芸を極めることを通じて芸を学ぶ「道」(芸を習得する術、学び方、究め方)を自然と得とくした者は、ある意味強いのである。多芸への道も、照らされているからだ。

ならば、多芸先行者は不利なのだろうか。いや、そうとも言えない。逆も然り。多芸の中に共通点を見い出し、一芸に活かせればゴールへのショートカット(近道)となるはずだ。先ずは、”I’m just a Jack of all trades.”で開き直っていいのだ。大切なのは、その先である。多芸から何を生み出せるか、秀でた一芸を見い出せるかだ。

多芸でも一芸に秀で、一芸の中でも多芸の要素に溢れていれば、まさに最強なのだ。

「一芸に秀でる者は多芸に通ず」である。「多芸は無芸」ではない。無芸となるなのは、諦めたときである。

すべてに感謝。

先日、体調を崩してしまった。尿路結石、胆石、逆流性食道炎。病名はともかくも、身体はどうも頑丈なようだ。

ただ、嘔吐が続いて飲食ができなくなったためか、この数週間で7キロも体重が落ちた。が、痩せたようには見えないらしい。7キロ程度落ちても、見た目に変わりはないということか。

ダイエットしているわけではないが、激減した体重のままを維持したいものだ。何せ、身体が軽くなった。お陰でフットワークも良くなったように感じる。

望んだわけではない絶食によって、身体の隅々から毒素が抜けたような爽快感が生まれた。それだけではない。食べ物の嗜好も少し変わったように感じる。どう変わったかはさておき、何となく綺麗になった体内には、今までもよりピュアな飲み物や食べ物を納めていきたいものだと思ったりもしている。

尿路結石は、20数年前にも経験している。石のできやすい体質と言ってしまえばそれまでだが、自分の身体をいたわっていないことのツケである。日ごろ、社員に対して体調の自己管理を呼びかけているのだが、その言葉に説得力の欠く事態を招いてしまった自分が情けなく自己反省しきりである。

そこで敢えて、社員にも在宅翻訳者にも呼びかけたい。

「1時間に1度は休憩し必ずトイレに行こう!」

ローカライズ業務でモニターに集中していると、トイレに行きたくても「もう少しキリのいいところまでやってから…」と、…気が付けば数時間も経っていることがよくある。それでは、身体に”いかん(アカン)”のである。

まさに「健康第一」「命どぅ宝」である。

今回、体調を崩したお陰(^_^)で、とてもいい病院とも出会えた。その病院を紹介してくれた掛かりつけの医師に心から感謝したい。紹介していただいた病院の医師も看護師も、働いているスタッフの誰もが親身に向き合ってくれる。その病院には、人が醸し出す癒しが溢れている。病院に行くたびに感動する光景を目にする。

仕事においてもそうだが、人と人とのつながりで道が開かれたりもする。会社の将来も、すべては社員によって決まる。お客様を引きつけ、プロジェクトを呼び込めるかは社員の力量次第である。人がまさに、会社にとってのすべてと言っても過言ではないだろう。在宅翻訳者の協力がなければ、プロジェクトも遂行しえない。すべては人なんだと、あらためて気づかされている今日このごろの日々である。

『健康に感謝』『人に感謝』すべてに感謝。

文化(言葉)保護

長年翻訳に携わっていると、ある種のクセがついてしまう。

例えば、
・街かどで目にする英語や日本語を完璧に翻訳できるか自分の力を自分で試してしまう、
・電車内の広告をマーケティングの視点から評価し、キャッチコピーなどを別の表現に置き換えたりする、
・レストランでオーダーすることを忘れ、メニュー表を校正する、
・セミナーなどでもらった資料の誤記などを探しまくる、

といったようなことを無意識のうちにやっているのである。職業病とでも言うのだろうか。

クセといったものは恐ろしほどに時間を費やさせるもので、ネットはその浪費の対象となっている。取り分け、海外の世界的なグローバル企業のサイトは、わたしにとっては格好の材料である。英語などのソース言語以外は、ほとんどが翻訳文だからだ。

翻訳された日本語サイトを読むと、その劣悪さに愕然とすることが増えてきた。日本語になっていれば、それでよしとする傾向が広まってきているように感じられる。意味が通じればまだしも、実際には意味不明な文章が多い。

職業病は、そんな文章に出会うとたちまち発症してしまう。直ぐさま英語サイトを確認し、翻訳文が内容的に正しいかどうかを評価することになる。そんな中、懸念されることが増えてきた。日本語サイトの文章が、誤訳のみならず文章そのものが質的にも許容される最低レベルを下回っているケースが目立ってきている。内容によっては、法的争議を起こされかねないクリティカルな間違いもあったりする。グローバル企業は、グローバライズ(ローカライズ)製品の品質低下が命取りになる恐れがあることを、認識しておく必要があるはずだ。思わぬところに、落とし穴があるやも知れぬ。

スピードの時代である。量産も求められる。すべてがコストと直結してくる。他社よりも一刻も早く、そして安く市場にローカライズ製品を投入しなければ遅れをとってしまう時代である。その焦りが品質低下を招き、それが起因してユーザー離れが起こり、業績悪化といった悪循環を自らで生成しているように思えて仕方がない。

コストを抑え、超スピード感をもって、信頼の得られる製品を市場に投入する術はある。先ずは、企業としてのビジョンの中で、例えば次のようなアピールをしたらどうだろうか。

「弊社は自然環境保護への取り組みと同様に、言葉(文化)の保護にも努めています」と。

真摯に取り組めば、きっと市場の信頼度も増すだろう。そういった姿勢も、企業の社会的責任の一つだと思うのだが、わたしの独りよがりだろうか。そこに、超スピード感を付加し、その取り組みを実現させるのがローカライザーの腕の見せどころとも言える。

「一語懸命」を旨として、市場の評価をダイレクトに受けながらお客様支援に取り組んでいるローカライザーとして、寝ても覚めても何処にいてもクセが出てしまうローカライザーとして、日々そう思うのである。

尊敬する先生

先日、わたしの最も尊敬する先生から手紙が届いた。奥様の死を知らせる訃報であった。手書きの訃報にはこうあった。

「…自分のやりたいことばかりして、妻のしたいこと、また健康を思いやることに欠けていた私としては深い後悔に今はうちひしがれています。これからは妻の生き方、妻が私にしてくれたこと、妻が今後やろうとしていた社会貢献をよく考え、妻を生かし続けるよう努力したいと考えています。…」

その先生は、東京大学の名誉教授である。が、学者である前に活動家であり実践者である。”学者であると同時に”と言わないのは、実践者としての偉大さが際立っているからである。まさに、並はずれた頭脳を人生をかけて実践に生かされている。未曾有の苦難にあえぐ人々を救うための活動を実践されておられる。故にわたしは、その先生を最も尊敬している。

その先生を支えてこられ、最も強力な理解者であった奥様が亡くなられた。癌との闘いだったようだ。病床にありながらも、苦しみながらも明るく振舞っていたと聞いた。その奥様の病床でのお気持ちを察するには、余り有るものがある。深い愛が垣間見えるだけに、先生の実践者としての必死なまでの日ごろの言動に心打たれる一人として、奥様の無念さも伝わってくるようで辛く悲しみに耐えない。

いつの時代にも美辞麗句を並べるだけの人と”生きる”リスクを負う実践者はいる。実践者には時として、喩えて言えば「石」が投げ付けられたりもする。実践者には矢面に立つ覚悟と揺るぎない強い信念、そしてそれを可能ならしめる環境が必要なのだが、その環境を作り上げ支えておられた奥様には、先生と同等に尊敬の念を強く抱く。

時間は、実践者とそうでない人とをふるいにかける。時間が、歴史が、いずれ、正当にその先生の評価をしてくれるだろう。先生とともに活動に参加させていただいているわたしの切なる願いは、先生の生あるうちに、実践の”実り”を知らせる”吉報”が届くことである。たとえ、時間が実践者を評価する時が来るとしても。

週末、葬儀式に参列した。遺影写真の奥様は、明るく微笑んでいた。帰りの電車の中で、参列者への返礼文を開いてみた。そこには、奥様への想いがつづられていた。「笑顔の愛らしく美しい人」と題されて。

心から合掌||