帰省

先月、週末を利用し父の三回忌で帰省した。出発日と帰京日を含め3日のスケジュール。羽田から直行便で片道3時間半を要する。

空港到着後、空港で迎えてくれた姉夫婦と共に、父の遺骨が安置されているお寺へ直行。そこで母や兄夫婦と再会。焼香を済ませ母の居宅へ。一息入れて兄夫婦の家へ。私が大好きな姉お手製の出汁の効いた汁物をご馳走になり、すぐに何名かの恩師の家を訪問。涙の再会。

そうこうしているうちに夕暮れに。
いざ、小学校時代の同級会へ。
(幼なじみ、そして恩師と語り尽くせぬ楽しい時間。。。)

翌朝は朝早くから多くの同窓生(友)の自宅を訪問。

帰省の際は、父の葬儀に参列してくれた同窓生たち全員の自宅を一軒一軒回ろうと決めていた。「返礼は挨拶状で済んでいるでしょ」と言われそうだが、直接お会いして礼を述べずにはいられなかった。父と直接に関わりのないはずの同窓生たちが数多く葬儀に来てくれていた。記帳名簿に記載された友の住所を頼りに一軒一軒回った。

直接顔をみて「ありがとうございました」と心を込めてお礼を申し上げたかった。突然の訪問であったため不在の友もいたが、在宅の同窓生たちは玄関ドアを開けるなり飛びついてきた。ハグしながらの再会。

「ありがとうございました」と頭を下げる私の挨拶をさえぎるかのように、「昌順、来てくれてありがとう。友だちの親の葬儀にかけつけるのは当然さ」の声に涙があふれ、友の顔を見るのがやっとだった。

午後は三回忌の法要を挙行。夜はいくつかの夕食会。翌朝は挨拶回りを終えて母の居宅と姉夫婦の家へ。その後、甥っ子たちの家族も含め皆さん総出の空港でのお見送りを受けて機上へ。

飛行機の窓外に広がる島が遠くになるにつれ、島の優しさに応えられない自身の未熟さと愚かさに嘆き、空に向かってわびた。そして何より、あらためて「おとう」様の偉大さと母の愛に気付かされた帰省となった。

ありがとう。

父、眠る!
父ちゃん、もう力つきてしまいました。
ただ静かに穏やかな顔して眠っています。
父ちゃん、本当にありがとう!

作年1月某日に届いた姉からのメール。覚悟はしていた。帰心矢の如しだが、駆けつけることが叶わなかった。新型コロナ禍の真っ只中、島には戻れなかった。いや、無理矢理にでも戻ることはできたはずだった。

明日のない世界へ旅立つ父を「おとう!」と呼びかけて見送ることができなかった。きっと「おとう」は病に伏せながらも、”順は必ず顔を見せてくれる”と信じていたに違いなかった。

かつてわたし(順)は、東西冷戦時代の諜報戦の現場に身を晒していたことがあった。その影響で、一線を退いてからも何年間かは身内との接触を完全に封じざるを得なかった。わたし自身を含め、身内へ深刻な危害の及ぶ恐れが多分にあったからだ。それだけは、人生を賭しても防がなければならない。

身内のほとんどが、連絡のつかないわたしの存命をあきらめ、失踪宣告の手続きをすべきとの判断をしていたようだった。その中にあっても「おとう」だけは、”順は必ず生きている””生きて必ず帰ってくる”と頑なに譲らなかったという。

一昨年の春、父は倒れ入院した。食べることの難しくなった父は胃瘻カテーテルを装着した。しかし、病床にありながらも胃ろうを抜去しようとするために、身体拘束帯(ミトン)を着けさせられたようだった。それを聞いたときには、恐怖のような胸の痛みを覚えた。冷戦時代の現場で何度か死を覚悟する局面に陥ったときでさえ、感傷的になることはあっても恐怖を感じることはなかった。

恐怖の中にあっても、穏やかな顔をして眠っていたという父。やはりわたしの「おとう」様だ、と1年を経て改めて、父の人間としての尊厳と偉大さを感じている。物心ついたときからの父の教示は、そこに耐え難き理不尽な厳格さはあったものの、人生を賭してでも守るべき道を示すものだった。

コロナ禍の今思い出すこと – お前一人の命じゃないぞ!

西アフリカで2年半ほど滞在していた20代のころ、マラリヤを患ったことが2度あった。その後10年ほどは毎年、マラリアに罹った時期になると、身体がその時の悪寒や脱力感を想起するのか原因不明の発熱に悩まされ続けた。

最初のマラリヤは突然やってきた。ある日、朝起きると身体中が熱っぽかった。体温を測ると41度。
「これぐらいは…」と勤務先の大使館へと向かった。その日の朝は、パウチ(外交行嚢=外交文書)を空港で引き取らなければならなかったため、休むわけにもいかなかった。

ふらつきながらも早朝のルーティン業務をこなし、現地スタッフのピーターと2人で空港へと向かった。車中、ピーターが、わたしの顔を見て声をつまらせた。
「Mr.スナガワ、熱があるのでは?マラリヤなら死ぬことも…」
「アフリカは暑いからネ。ありがとう」
と気丈なふりをしたものの、意識はうつろだった。

無事に行嚢を受け取り帰館すると、ピーターの姿が見えなくなった。
わたしは届いた文書を急いで整理し、上司の参事官室へ携行した。

「パウチが届きました」と開けっ放しの入り口からペコリと部屋に入ると、ピーターが参事官の傍に立っていた。
「バカヤロー!ピーターが教えてくれた」
「何度だ!朝測ってきたんだろ!」
「はっ、いえ…」と濁すわたしに
「体温は!」と畳みかけてきた。
「大したことは…40度…いや、もう下がっていると」
「バカヤロー!病院へ行け!運転はジローにさせろ。今すぐ行け」と怒鳴った。
「はっ、でも、報告書を書いてからでも…」
「お前はバカか!救いようがないな!これは命令だ!すぐ行け!」

上司の剣幕に圧倒され、街中の小さな病院へと向かった(当時、市内にはイギリス人医師が開業している小さな診療所が1軒あった)。車中、運転手のジローがぽつり。
「これで、Mr.スナガワもアフリカ人」

診察の結果、やはりマラリヤに罹っていた。治療薬はないため、予防薬をもらって大使館に戻った。
「薬をもらってきました」と参事官に報告すると
「バカヤロー、さっさと帰れ!」とまたしても。
「はっ、もう大丈夫です。ありがとうございます」と元気を装うわたしに、
「報告書を書いたらすぐに帰れ。ただし明日は休め。明朝の援助貨物の確認は俺一人で行く。これは命令だ。いいな!」と口調を強めた。
翌朝は、日本の援助物資が港へ荷下ろしされる予定であったため、その確認に参事官のお供をして立ち会うことになっていた。

翌朝…
いつものように早朝のルーティン業務をこなし、現地スタッフとロビーで打ち合わせをしながら参事官の出勤を待っていると、玄関前の車寄せに到着した車中から参事官が出てきた。わたしを見つけるなり、
「バカヤロー!休めと言っただろう!今日は何度だ!」
「40度はありません…」
「バカヤロー!大丈夫か…。無理するな!お前一人の命じゃないぞ!…大切にしろ!」と眼差しは優しげだった。
「少し待ってろ。準備は出来ているのか」
そう言うと参事官は部屋に一旦入り、ほどなくして出てきた。
手に持っていたカバンと水筒をわたしに手渡し、
「じゃ、行くか。家内が水を用意してくれた。それでも飲んで…」と車寄せまで先に歩き出した(当時、同国の公共インフラは壊滅し電気は供給されず、飲み水も満足に手に入らない状況にあった)。
「ありがとうございます」と後を追った。カバン持ちとして。

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あれから、四半世紀が経つ。わたしが彼に仕えたのは、西アフリカでの2年ほどであったが、事あるごとに「バカヤロー」とわたしを怒鳴りつけながらもわたしを見守ってくれたその上司は、もうこの世にはいない。その後、わたしはアフリカから中東へと転勤となり、彼は功績が認められさらなる階段を上っていくこととなった。彼の働きにより、日本は同国への最大の援助国となったのである。

彼は晩年、外務省を辞めたわたしの生き方をいつも気にしていたと彼の家族から話を聞いた。彼の火葬の日、遺骨を拾わせていただいた帰りの車中から見えた風に舞う満開の桜の花びらに涙が止まらなかった。その彼は、わたしに誠の外交官のあるべき姿勢、人の生き方を教えてくれた最も尊敬できる偉大な師であり、戦後を生きた日本の誇りある人間外交官であった。わたしのその後の生き方の選択を真の意味で見抜いていたのは、外務省の中で彼ただ一人だったかもしれない。

「バカヤロー、お前一人の命じゃないぞ!」