社員の「一芸採用」枠なるものを設けた。
「一芸に秀でる者は多芸に通ず」という言葉もある。「多芸は無芸」とも言われる。ここで、多芸を揶揄する表現をざっと挙げてみる。
「器用貧乏」「多弁能なし」「何でも来いに名人なし」「百芸は一芸の精(くわ)しきに如(し)かず」「螻蛄才(けらざい)」
思いつくだけでも意外とある。「石臼芸(いしうすげい)より茶臼芸(ちゃうすげい)」なんていうのもある。中途半端な多芸は、道を究めんとする意識社会においては特にそうなのか、さんざんな言われようである。
こう見ると世の中、歴史的にも一芸を究めることを評価する度合いが高いようだ。洋の東西を問わないのか、”Jack of all trades is master of none.”と揶揄したりする。
が、しかしである。
かの宮本武蔵の『五輪書』には、兵法を学ぶ心得として「諸芸にさは(わ)る所(広く諸芸の道に触る事)」と説かれている。一方で彼は「役にたゝぬ事をせざる事」とも記している。矛盾しているようだが、実は矛盾してはいない。
彼は、剣術を究めただけではない。晩年は、多くの趣味に遊んだ。書画、工芸をはじめ、茶道や能も嗜み、和歌を詠み座禅も組んだ。一芸を究めんとすれば、諸芸に触れざるを得ず、一芸の限界を見出すことで境地を悟ったのだろう。一芸を究めたからこそ、多芸の道が開けたと言える。
つまるところ、多芸である「器用貧乏人」が「器用で何が悪い」と開き直るのにも一理ある。さんざんに言われる筋合いはないのだ。「諸芸花多くして実すくなし」と言われようが、花の多い木の下で人は花見をするのである。
そこで、冷静に考えてみる。一芸が先か多芸が先か。
まず、多芸が先だと、芸の道が中途半端になりがちである。すべての芸で道を究めることは、常人には不可能だからだ。宮本武蔵とて、例外ではない。ならば、一芸を究める努力を先にした方がいいことになる。然るに、一芸から多芸に通じる道は開かれるのである。
一芸を極めることを通じて芸を学ぶ「道」(芸を習得する術、学び方、究め方)を自然と得とくした者は、ある意味強いのである。多芸への道も、照らされているからだ。
ならば、多芸先行者は不利なのだろうか。いや、そうとも言えない。逆も然り。多芸の中に共通点を見い出し、一芸に活かせればゴールへのショートカット(近道)となるはずだ。先ずは、”I’m just a Jack of all trades.”で開き直っていいのだ。大切なのは、その先である。多芸から何を生み出せるか、秀でた一芸を見い出せるかだ。
多芸でも一芸に秀で、一芸の中でも多芸の要素に溢れていれば、まさに最強なのだ。
「一芸に秀でる者は多芸に通ず」である。「多芸は無芸」ではない。無芸となるなのは、諦めたときである。