すべてに感謝。

先日、体調を崩してしまった。尿路結石、胆石、逆流性食道炎。病名はともかくも、身体はどうも頑丈なようだ。

ただ、嘔吐が続いて飲食ができなくなったためか、この数週間で7キロも体重が落ちた。が、痩せたようには見えないらしい。7キロ程度落ちても、見た目に変わりはないということか。

ダイエットしているわけではないが、激減した体重のままを維持したいものだ。何せ、身体が軽くなった。お陰でフットワークも良くなったように感じる。

望んだわけではない絶食によって、身体の隅々から毒素が抜けたような爽快感が生まれた。それだけではない。食べ物の嗜好も少し変わったように感じる。どう変わったかはさておき、何となく綺麗になった体内には、今までもよりピュアな飲み物や食べ物を納めていきたいものだと思ったりもしている。

尿路結石は、20数年前にも経験している。石のできやすい体質と言ってしまえばそれまでだが、自分の身体をいたわっていないことのツケである。日ごろ、社員に対して体調の自己管理を呼びかけているのだが、その言葉に説得力の欠く事態を招いてしまった自分が情けなく自己反省しきりである。

そこで敢えて、社員にも在宅翻訳者にも呼びかけたい。

「1時間に1度は休憩し必ずトイレに行こう!」

ローカライズ業務でモニターに集中していると、トイレに行きたくても「もう少しキリのいいところまでやってから…」と、…気が付けば数時間も経っていることがよくある。それでは、身体に”いかん(アカン)”のである。

まさに「健康第一」「命どぅ宝」である。

今回、体調を崩したお陰(^_^)で、とてもいい病院とも出会えた。その病院を紹介してくれた掛かりつけの医師に心から感謝したい。紹介していただいた病院の医師も看護師も、働いているスタッフの誰もが親身に向き合ってくれる。その病院には、人が醸し出す癒しが溢れている。病院に行くたびに感動する光景を目にする。

仕事においてもそうだが、人と人とのつながりで道が開かれたりもする。会社の将来も、すべては社員によって決まる。お客様を引きつけ、プロジェクトを呼び込めるかは社員の力量次第である。人がまさに、会社にとってのすべてと言っても過言ではないだろう。在宅翻訳者の協力がなければ、プロジェクトも遂行しえない。すべては人なんだと、あらためて気づかされている今日このごろの日々である。

『健康に感謝』『人に感謝』すべてに感謝。

文化(言葉)保護

長年翻訳に携わっていると、ある種のクセがついてしまう。

例えば、
・街かどで目にする英語や日本語を完璧に翻訳できるか自分の力を自分で試してしまう、
・電車内の広告をマーケティングの視点から評価し、キャッチコピーなどを別の表現に置き換えたりする、
・レストランでオーダーすることを忘れ、メニュー表を校正する、
・セミナーなどでもらった資料の誤記などを探しまくる、

といったようなことを無意識のうちにやっているのである。職業病とでも言うのだろうか。

クセといったものは恐ろしほどに時間を費やさせるもので、ネットはその浪費の対象となっている。取り分け、海外の世界的なグローバル企業のサイトは、わたしにとっては格好の材料である。英語などのソース言語以外は、ほとんどが翻訳文だからだ。

翻訳された日本語サイトを読むと、その劣悪さに愕然とすることが増えてきた。日本語になっていれば、それでよしとする傾向が広まってきているように感じられる。意味が通じればまだしも、実際には意味不明な文章が多い。

職業病は、そんな文章に出会うとたちまち発症してしまう。直ぐさま英語サイトを確認し、翻訳文が内容的に正しいかどうかを評価することになる。そんな中、懸念されることが増えてきた。日本語サイトの文章が、誤訳のみならず文章そのものが質的にも許容される最低レベルを下回っているケースが目立ってきている。内容によっては、法的争議を起こされかねないクリティカルな間違いもあったりする。グローバル企業は、グローバライズ(ローカライズ)製品の品質低下が命取りになる恐れがあることを、認識しておく必要があるはずだ。思わぬところに、落とし穴があるやも知れぬ。

スピードの時代である。量産も求められる。すべてがコストと直結してくる。他社よりも一刻も早く、そして安く市場にローカライズ製品を投入しなければ遅れをとってしまう時代である。その焦りが品質低下を招き、それが起因してユーザー離れが起こり、業績悪化といった悪循環を自らで生成しているように思えて仕方がない。

コストを抑え、超スピード感をもって、信頼の得られる製品を市場に投入する術はある。先ずは、企業としてのビジョンの中で、例えば次のようなアピールをしたらどうだろうか。

「弊社は自然環境保護への取り組みと同様に、言葉(文化)の保護にも努めています」と。

真摯に取り組めば、きっと市場の信頼度も増すだろう。そういった姿勢も、企業の社会的責任の一つだと思うのだが、わたしの独りよがりだろうか。そこに、超スピード感を付加し、その取り組みを実現させるのがローカライザーの腕の見せどころとも言える。

「一語懸命」を旨として、市場の評価をダイレクトに受けながらお客様支援に取り組んでいるローカライザーとして、寝ても覚めても何処にいてもクセが出てしまうローカライザーとして、日々そう思うのである。

尊敬する先生

先日、わたしの最も尊敬する先生から手紙が届いた。奥様の死を知らせる訃報であった。手書きの訃報にはこうあった。

「…自分のやりたいことばかりして、妻のしたいこと、また健康を思いやることに欠けていた私としては深い後悔に今はうちひしがれています。これからは妻の生き方、妻が私にしてくれたこと、妻が今後やろうとしていた社会貢献をよく考え、妻を生かし続けるよう努力したいと考えています。…」

その先生は、東京大学の名誉教授である。が、学者である前に活動家であり実践者である。”学者であると同時に”と言わないのは、実践者としての偉大さが際立っているからである。まさに、並はずれた頭脳を人生をかけて実践に生かされている。未曾有の苦難にあえぐ人々を救うための活動を実践されておられる。故にわたしは、その先生を最も尊敬している。

その先生を支えてこられ、最も強力な理解者であった奥様が亡くなられた。癌との闘いだったようだ。病床にありながらも、苦しみながらも明るく振舞っていたと聞いた。その奥様の病床でのお気持ちを察するには、余り有るものがある。深い愛が垣間見えるだけに、先生の実践者としての必死なまでの日ごろの言動に心打たれる一人として、奥様の無念さも伝わってくるようで辛く悲しみに耐えない。

いつの時代にも美辞麗句を並べるだけの人と”生きる”リスクを負う実践者はいる。実践者には時として、喩えて言えば「石」が投げ付けられたりもする。実践者には矢面に立つ覚悟と揺るぎない強い信念、そしてそれを可能ならしめる環境が必要なのだが、その環境を作り上げ支えておられた奥様には、先生と同等に尊敬の念を強く抱く。

時間は、実践者とそうでない人とをふるいにかける。時間が、歴史が、いずれ、正当にその先生の評価をしてくれるだろう。先生とともに活動に参加させていただいているわたしの切なる願いは、先生の生あるうちに、実践の”実り”を知らせる”吉報”が届くことである。たとえ、時間が実践者を評価する時が来るとしても。

週末、葬儀式に参列した。遺影写真の奥様は、明るく微笑んでいた。帰りの電車の中で、参列者への返礼文を開いてみた。そこには、奥様への想いがつづられていた。「笑顔の愛らしく美しい人」と題されて。

心から合掌||