夏がやってきた。熱い夏が。

節電の夏がやってきた。昨年も節電に頑張った。今年も頑張ろう~。そう奮い立たせてくれる、今は亡き尊敬する上司がいた。かつて在勤していた、在ガーナ日本国大使館の参事官がその人だ。

こんなことがあった。ある日、

「ばかやろう!」という怒る声が、玄関から通じる大使館のロビーに響き渡った。参事官の怒鳴る声だ。あまりの大声に、何事かと部屋を飛び出すと、凍りつく現地職員たちを参事官が鬼の形相でにらみつけていた。

「さっさと電気を消さんか!バカ者どもが。何度同じことを言わせるんだっ。自分たちの国が苦しんでいるんだぞ!国民が耐えているんだぞ!電気もない、水もない。皆が不自由を耐えているというのに、たまに電気がきたからといって、電灯をつけるとは。バカ者~!」

現地職員の誰かが、うっかり電灯のスイッチを入れてしまっただけであったが、叱責の言葉は30分以上も続いた。

さらに、われわれ大使館員への叱責も続いた。「君たちは何のためにこの国に赴任してきたんだ!よく考えろ!援助を行っている日本が、その姿勢を示さなくてどうする!バカたれ!この国の状況がわからんのか!電気のある冷房のきいた部屋で、本省に対して、日本へ援助案件の報告書が書けるのか?」その剣幕たるや、尋常ではなかった。

1980年代のガーナは政情不安定な状況にあった。電気や水道といった公共インフラは半壊状態。そんななか、たまに電気が供給され、たとえ薄暗い室内であっても明かりをつけようものなら、参事官の怒りようは大変なものとなった。ましてや、冷房を入れるなんてことは、どんなに汗をかいていようが、暑かろうが考えもつかないことであった。

「ガーナのどこの役所でも、電気がある時は冷房ぐらいかけているよ。それなのに、援助国の日本の大使館では、電灯をつけることさえできないなんて」といった不満のつぶやきは現地職員の中から時折聞こえてきたが、誰もが参事官の姿勢に理解を示していた。

『国を想い、人に熱く、真理に生きる』という己の信念を貫く参事官の姿勢は徹底していた。こうした厳しい姿勢は、ガーナ国の政府機関に対しても変わらず、政府機関を訪ね部屋の冷房が入っていたりすると、「干ばつでダムの水位も下がり、電力不足も続いるというのに…。わたしは暑くないけどねっ」と遠回しな表現ながら、臆することなく非難の言葉をなげつけた。

当初は困惑していた政府機関の人たちも、真剣にガーナ国を想う参事官に敬意を払うようになり、日本からの援助プロジェクトも着実に実を結んで、日本国への評価はさらに高まっていった。

その参事官は、今はもういない。ご遺族の心遣いで、火葬後の骨を拾わせていただいた。彼の名は、歴史の教科書には出てこない。が、偉大な外交官だった。外交を、生き方を教えてくれた彼との数多くの思い出は、わたしの心の中に、うずたかく残っている。幕末の志士たちよりも、日本を想い、世界を見つめ続けた熱い人物だった。そんな彼を感じる、夏がやってきた。

「歴史に学ぶことの大切さ」

これまでになく、世界的にも「歴史に学ぶことの大切さ」が叫ばれている。歴史から学ぶことを怠れば、同じ過ちを繰り返すことになるからだ。

歴史的な哲学者などが、そのことを言い続けてきた。代表的なフレーズを挙げるとしたら、直ぐに頭に浮かぶのは以下の2つだろうか。

We learn from history that we do not learn from history.
– Georg Wilhelm Friedrich Hegel

Those who cannot remember the past are condemned to repeat it.
– George Santayana

これらは、わたし自身が講演や寄稿の際によく触れるため丸暗記しているフレーズでもある。

こういうフレーズが歴史に残るということは、人類は同じ過ちを繰り返し続けていることの証でもある。歴史から学んでいないことを悟りながらも、人類はそれを繰り返していることになる。英語で表現すれば、以下のようになるのだろう。

The only thing we learn from history is that we never learn from history.

歴史を知れば、歴史から学ぶことの大切さに気付くものなのだろうが(The more you know about the past, the more you realize the importance of learning from the past)、それでも歴史は繰り返している(History repeats itself)。

いつも、講演や寄稿の最後に記すわたしのコメントを一言…。

“歴史は繰り返されている。歴史に背を向けたときに、人類は再び大きな過ちを犯すことになるだろう”

History is repeating. When turning our backs on the history, humankind will continue to make the same grave mistakes.

敢えてしつこく繰り返し述べるとしたら…

“It’s never too late to learn from history, because history is repeating. It’s never too late to become what we might have been.

遅きに失した悲劇は無数に存在する。が、あきらめない姿勢が大切なのだと思う。

Widget(ウィジェット)とGadget(ガジェット)

ウィジェットという用語も最近は聞き慣れてきたが、若いころ(20代の中頃までは)は聞いたことがなかった。酒飲みのわたしが、”ウィジェット”と聞いて頭に浮かぶのは、ギネスビール(あの黒ビール)缶の中に入っている”あのコロコロ”と鳴るやつだ。

ドラフトギネス缶を振ったことのある人なら、コロコロという音に”缶の中に何か入っているのだろうか”と気になったに違いない。好奇心にまかせ、飲み終わった後に缶をペンチで切り開いた人もいるだろう。”何かわかんないけどプラスチック製のような白い丸いボール”が入っているのを見て、”これが入っているから泡がクリーミーになるんだ~”と、これまたよくわかんないけど納得したのでは。あの白い丸いやつのことを”フローティングウィジェット”と呼ぶが、英語では何か名前はわからないけど、小さな装置のようなパーツみたいなものをウィジェットとかガジェットとか言う。

ガジェットという単語は昔から日常で普通に使われているが、近年は電子的なデバイスを指したりもする。ウィジェットもガジェットも”シンプルで便利なアプリ”の意味で使われたり、あるいはアプリへのアクセスを意味する簡単なプログラミングを指したりもする。ガジェットは特に、GUI(グラフィカルユーザーインターフェース)の要素が強い小さなプログラムと言ったところだ。

最近はあまり聞かなくなったブログパーツはウィジェットである。ウィジェットとガジェットの違いを、その所有性の有無で問うケースもあるが、一般のユーザーにとってはそんなことは関係なく、”便利なミニアプリ”であり、”あれば便利なアクセサリーソフト”である。どちらも、ちょっとした知識があれば比較的簡単に作成できるが、その必要性を感じないほどに、さまざまなウィジェットやガジェットがWeb上にも溢れている。例えば、カレンダー、時計、メモ帳、地図、最新ニュースの表示など、例を挙げればキリがないほどだ。。

スマホが流行っている中、ウィジェットもガジェットも、その地位を確立したと言える。ウィジェットは、わたしが大人になってから生まれた言葉なのだが、ガジェットなら子供のころから日常で良く使っていた単語でもある。何か面白いちっちゃなものがあると”ガジェット””ガジェット”と呼んで遊んでいた。が、物心ついたときには、人類最初の原子爆弾のコードネームに用いられたと聞かされた。その後、広島と長崎の原子爆弾が”リトルボーイ”と”ファットマン”というコードネームであることも教わった。

いつも感じることがある。言葉は生きものだな~と。言葉には深い履歴があったりする。時代の肖像のようだ。時代の衣をまとわされたり意味合いを変化させられたり。それだけに、”言葉”を生業にしている者として、その言葉の本来の姿だけはしっかりと見極められるようにしておこうと思う。ローカライズ(翻訳)を通して、1つ1つの言葉から学ぶことは多い。