”Bravi 、Bravo(ブラヴォー)”

“終活(しゅうかつ)”という言葉が使われるようになってきた。言葉に慎重なローカライザーとして、その表現に異様さを感じる。その行為自体は大切なことだ。生前のうちに自身の葬儀や墓などの準備をしておくのは理解できる。多分、自分も年齢を重ねれば”最後を迎えるにあたって”を考え準備するだろう。が”終活”という言葉が”就活”の派生なのか、学生の就職活動と同じレベルで発想されたようで違和感を覚える。

そこには、直接的な表現を避け、敷居を低くくすることで”終活”の商品化が図られる市場が見える。結婚式と同じ発想で”終活”市場もランク付けされていくであろうが、”終活支援”市場にお金が流れることで、セレモニー化による”絆”の形骸化が進む面もある。社会が成熟した証なのか、それとも病んでいるのか。いずれにせよ、”終活”という言葉は使いたくない。

20代の最後のころ、ウィーン滞在中にこういうことがあった。

1日フリーの日があって、午後から街中へ出かけた。航空会社で航空券を購入し、公園でパンとソーセージをほうばりながら読書を楽しんだ。夕闇が迫るころ、そろそろ帰ろうと公園を抜け王宮広場に出ると、テナーサックスのサウンドらしき音が聞こえてきた。ちょっとぎこちないサウンドに足が止まり、目の前のベンチに腰掛けた。学生のころ、吹奏楽をやっていたせいか血が騒いだ。

広場のベンチから音が聞こえてくる商店街の方に目をやると、一見して80歳に手が届きそうな老婦人が歩道に立ってテナーサックスを吹いていた。音楽の都ウィーンとは言え、老婦人とテナーサックスのとりあわせに驚いた。たえだえのサウンドに、メロディーラインさえ掴めない。年齢からして、もはや吹きこなせないのだろう。

わたしは、暇にまかせてサックスから流れ出る音階を頭の中でつむぎ、必死に曲名を探し出そうとしていた。やがて陽は落ち商店街に灯りがともりだしても、その老婦人は何かにとりつかれたかのようにサックスを吹き続けていた。人通りはあるが、誰一人として立ち止まって耳を傾ける者はない。

その老婦人の顔をもっと間近で見たくなり、静かに歩き寄った。かなりの高齢に見える。粗末な服装をまとい、手製のサックスストラップが付いた楽器も相当に古そうだ。「よく、その年齢でサックスを吹いているもんだ」と驚嘆しながら見つめると、彼女は吹くのをやめ、「聞いてくれてありがとう。リクエストは」と、か細い声で話しかけてきた。「エーデルワイス」と答えると、彼女は一瞬知面を見つめ楽器を持ち直した。サックスを吹きはじめた彼女の立ち姿からは威風が漂ってきた。流れ出す旋律は不正確で音は途切れがちに思えたが、音色だけは深重に響き心地良かった。

曲が終わりチップを渡そうとすると彼女がほほ笑んだ。「いいのよ、喜んでもらえれば…」。しわしわの顔の奥まった目は、とても美しかった。チップ受けとして広げてあるボロボロのサックスケースをふと見ると、そこには1枚の硬貨も入っていなかった。「ずっと、サックスを吹いているの?…」と彼女と言葉を交わしていると、通りの向こうからおぼつかない足取りで同年代の男性がトボトボと歩いてきた。

「迎えに来たよ」。「ありがとう」。二人で仲良くサックスをケースにしまうと、男性はケースを右手に持ち、左手で彼女の手をとった。「またネ」「お元気で」と挨拶を交わすと、二人でわたしに笑顔を送り歩きだした。

「もう会えないかも…」わたしの言葉に振り返りながら、笑顔で肩を寄せ合い身体を同じリズムで左右に揺らせながら歩き去る二人の後ろ姿はいつしか、街灯に照らされ揺れる一つの影となっていた。

その影が街かどから消えるまで、掌が痛くなりながらも”Bravo!”と力いっぱいの拍手で見送った。一人しかいない観客の拍手がやむと、街かどは急に寂しくなった。

翌日、ベルリンへと向かう機上から、見えるはずもない老婦人の影をウィーンの街中に探していた。飛行機の窓からウィーンという街に”乾杯”しつつ、老婦人の言葉を思い返していた。「サックスは、最近始めたのさ」。

その老婦人のサウンドは、エーデルワイスのメロディーを奏でてはいなかった。が、その後ろ姿からは、”Brava”と叫びたくなる確かな人生のメロディーがかもしだされていた。

生きるとは、”そういうこと”なのだろう、とウィーンの街角で思った。”終活”という言葉を耳にするたび、街灯に揺れていた老婦人の陰影が浮かぶ。

外交の基本

硬直した外交政策が膠着を生んでいるのだが、異なる価値観に立てるかどうかで交渉の成否がわかれたりする。そこでは、双方における冷静な分析力が問われるが、この分析力の著しい欠落が外交失墜を招いているようでならない。

かつて、イスラムの世界で勤務していたが、価値観の違う人々が共存していくために、何がわれわれに求められているのかを考えさせられる日々の連続だった。

イスラム教徒最大の宗教祭日にアシューラというのがある。そのアシューラのクライマックスとなる日の宗教行事を街中に観察に出かけたことがあった。その日は、殉教者フセイン(預言者ムハンマドの孫)の命日にあたり、信徒による哀悼の街頭行進が行われる。早朝から、シーア派信徒が太い鎖やむき出しの刀剣、刃物の付いた鎖などを振り回し、自らの胸や背中、頭や額などを激しく傷つけながら街中を集団で練り歩くのである。

わたしは記録を残すため、隠しカメラで行列や街の様子を撮影していたが、周りにいる信徒を刺激することになれば何が起こるか分からないという極度の緊張を強いられた。

血をポタポタとしたたらせ、失血と興奮で気を失い倒れていく信者を街の角々で待機している救急車が次々と運んでいく。その街中の情景に、異なる民族との外交を安直に考えるな、と刃を喉元に突きつけられ悟られているかのような緊迫感を覚えた。

哀悼行進も近年は儀礼的になりつつあるとはいえ、死者も出るというその宗教行事の意味を理解しなければ、イスラムの世界が遠ざかり、外交失策を招くことになる。そこに生きる民、文化、歴史、そこで生きてきた人々を知らずして外交を語れば大きな過ちを犯すことになる。

交渉相手を知ること、理解することは、ビジネスの世界においても重要である。昨今の世情では特に、これらに対する認識が軽んじられているようだ。周りを知ること、隣人を理解しようとすることは、生きるうえでも大切なことのはずだ。

国の外交政策や戦略を立てるには、相当な情報や分析が必要となる。やみくもに号令をかければいいというものではない。分析素養がなければ、相手を知る努力を怠れば、政治家たちの好きな言葉どおり”全身全霊を尽くして”も、”命をかけて”も成果は出せないだろう。

国の外交もビジネス界も似ている。日常を大切に、隣の人に声をかける。同僚を理解する。お客様と話しをする。…。お酒を酌み交わす。各国の人々と交流する。足元を大切に視野を広げる。基本からリスタートしてもいいのでは。きっと、道は開かれる。

1本のボールペン

先日のテレビ番組で、南アフリカでボールペン販売の営業をしている一人の日本人駐在員を紹介していた。ボールペン1本30円。現地の物価からすれば極めて高価だが、「最後の一滴まで使える」日本製ボールペンの良さをわかってもらおうと、現地の人々にひたすらに売り込んでいた。

貧しい地域の学校の子どもたちが持っている筆記具は、ボールペン1本だけ。「なくしたら お父さんに怒られるから絶対なくせない」と答えていた。日本では想像できないだろうが、ボールペン1本が奇跡を生むこともある。

今は30円のボールペン。「10年後に、彼らが300円のペンを持っていてくれればいい」と将来を見つめ目を輝かせる日本人営業マンの姿に、かつてアフリカに住んでいたころに仲良しになった一人の少年を思い出した。

少年の名はアジマン。その少年との出会いは街中だった。赴任して間もない週末、街中の観察に出かけた。通りを歩いていると、「オブロニ(白人さん=わたしのこと)、アイベグユー(お願い、何かちょうだい)」と背後から消え入るような小さな声が聞こえてきた。その声の主がアジマン少年だった。

その出会いから離任までの2年間、街中に出かけるたびに声を掛け合うようになった。貧しくて学校に通えないアジアン少年は、いつも通りで物乞いをしていた。

こんなことがあった。「アジマン、学校に行かなきゃダメだよ」と話しかけると、「行きたいさ!」と、わたしを睨みつけた。「行けばいいじゃん!」軽く答えるわたしに、「ボールペンもノートも買えないから行けないんだ!」と悔しそうに言い放った。

離任が迫ったある日、お別れのプレゼントを持ってアジマン少年の家を訪ねた。家と言っても、拾ってきた板を壁にし、その上に錆びたトタン板を乗せただけの囲いである。その中で少年は、汚れて色の判別もつかない毛布にくるまっていた。「オブロニ、またマラリアに…」。少年は熱でぐったりしていた。わたしは急いでマラリアの薬などを取りに戻った。

少年に薬と栄養剤を飲ませ、「もうすぐ離任だ。もう会えないなっ」と別れぎわにプレゼントを入れた紙袋を手渡した。「学校へ行くんだぞ!学校へ」と、会うたびに口癖のように言い続けてきた言葉を繰り返した。訴えるような眼差しの少年が、紙袋の中身を覗き込むのと同時に少年の家を後にした。

離任の日が来た。車で空港入り口に差しかかった時、道端に裸足で立つアジマン少年の姿が目に入った。家から空港まで歩いて来るには相当な時間がかかったはずだ。車を降りると少年が駆け寄ってきた。少年の手には、プレゼントした1本のボールペンと1冊のノートが握られていた。

「歩いてきたのか。元気になったか」。わたしの問いかけに黙ったまま答えない。「学校へ行けよ。あきらめるな」と言い残して車に乗り込むと、少年はプレゼントを握りしめた両手を車の窓にかざした。

「プレゼント、ありがとう。僕、学校へ行くよ。約束する。ありがとう”ショーン”。また必ず来てね」。初対面から、わたしをオブロニとしか呼ばなかった少年が、初めてわたしの名前を呼んだ。

1本のボールペン。最後の1滴まで使えば、10年後の、20年後の将来まで描きだすに違いない。