スタイルガイド

翻訳に際してのルールをまとめたスタイルガイドというのがある。文体などをこまごまと事前に決めておくのである。それこそ、100ページや200ページといったスタイルガイドもある。

最近、あるスタイルガイドを読んでいて頷いたことがあった。ガイドの中に、”視覚的なバランス”という言葉が出てきた。まさに、文章を校正するときのポイントである。しかしながら、そういったポイントを明記しているようなガイドは滅多にない。

視覚的にバランスの悪い文章には、必ずと言っていいほど問題がある。漢字だらけで黒っぽく見える文章のかたまりや、ひらがなだらけで白っぽくカスカスに見える文章には、やはりどこか欠点やミスがあるものだ。

極端な言い方をすると、プロの校正者は文章を読まなくても、視覚的なバランスだけで校正の必要な箇所をほぼ見つけ出すことができる。それも瞬間的に。

そういったプロの感覚を持った人が、そのスタイルガイドをまとめたに違いないと思うだけで嬉しくなった。そのガイドは10ページにも満たないが、まさにガイドだ。

ビリヤードとプール

アメリカに居るころ、よく友だちにプール(ビリヤード)に誘われた。わたしの場合は、ビリヤードにのめり込むこともなく上達もしなかった。アメリカでは”ビリヤード”のことを”プール”と言う人の方が多いが、日本でプールと言うと水泳プールかと勘違いされてしまう。

ビリヤードで思いだしたが、英語に面白い表現がある。ビリヤードに、8ボールルールというのがある。8番のボールを最後にポケットに落とした方が勝ちとなるのだが、8番より先に落とさなければならないボールが8番のボールの真後ろにピタリと来てしまうことがある。そうなると、素人には手の打ちようがない。

英語ではそういった、にっちもさっちもいかない(困った)状況を”behind the 8 ball”というフレーズを使って表現したりする。「ついてないな~、困ったな~」みたいな感覚で使うのだが、その昔、ある翻訳者がそういった意味があることを知らずに「8のボールの後ろ」と文脈を考えずに直訳してきたことがあった。

プールがビリヤードを意味する場合があることを知らないと、とんでもない誤訳が発生することになる。

「安くて美味しくて早い」?

「安くて美味しくて早い」のがフードチェーン店のキャッチ。もし、”まずいがとにかく安くて早い”というお店があったら流行るだろうか。程度問題になってしまうが、利用するお客さんもいるだろう。すべての市場を一緒くたに議論はできないが、翻訳業界も似ている。

機械翻訳はまさに「まずいが安くて早い」のだ。機械翻訳は、本来は生き物であるはずの言葉を無機質化してデータ処理することで即応的に大量の言葉の置き換えを可能にしている。しかし、未熟な機械翻訳システムからは、まずい翻訳結果が現れることがある。常識では考えられないほどまずいのである。しかし、世の中、うまくできたもので、提供側と利用側の利害が一致した市場では繁盛している。

ところが、あまりのまずさに根を上げる人たちもいる。「いくら何でもまずくて食べられない。安くて早いのはいいが、食べられる味にしてくれ」とクレームする。さらには、「雰囲気のいいお店で、ちゃんと味付けされた美味しい食事が、センスのいい器に盛られ、サーブが遅いと感じることなく出てきて欲しい」と要求するお客様も大勢いる。つまり、要求の異なる多様なお客様が存在するわけだ。当然、そういったお客様の要求に応えるお店も続々と現れることになる。

面白いことに、「まずいが安くて早い」機械翻訳が、お客様のさまざまな声を引き出し、要求に応じた新たな市場を生み出している。機械翻訳によって翻訳者や翻訳会社が仕事を失いつつあるようにみえて、実は逆にビジネスチャンスを広げている。

やがて、まずかった機械翻訳がそれなりに美味しくなる時代も確実にやってくる。それも、すぐに。そして、美味しさが美味しさを呼び込み、より良い質を求める市場も拡大していくだろう。

質の階層化によって現れる大なり小なりの新しい波。ローカライザーとしての力量が試されている。
We are not afraid of tough demands!